一貫生産を開始

わたしたちの国の国民所得(1935年、個人収入196円)から小型自動車(7500㏄、2200円、2・8倍)がもっとも望ましい車種だとして、快進社のダットサンとして残存した国産小型自動車を継承、生産すれば普及するとの構想を抱いた。


そればかりではなくGMに吸収合併されたアメリカのグラムハム・ペイジ社から中古機械(新品は20%のみ)を輸入し、アメリカと全く同1の大量生産方式を採用し、外人技師を招いて大工場を横浜と大阪に建設しました。


この両工場によって昭和10年からシャシーからボデーの一貫生産が開始されました。


中古車情報によると、小型車「ダットサン」は、ダット自動車時代の昭和6年の10台から日産に買収された9年には、乗用車、トラックをあわせて1170台、10年に入って1貫生産されると3800台へと飛躍的に増大したそうです。

画期的なこと

中古車の情報で調べると、昭和9年、戸畑鋳物の所有株式を日本産業に肩がわりして日産自動車と改称され、同社の子会社として発足したそうです。


この日産自動車の出現は、わたしたちの国自動車工業史上画期的なことでした。


それは、わたしたちの国ではじめてアメリカ式の流れ作業による大量生産で乗用車を生産しようとしたからです。


鮎川義介社長の「日産の使命について」によれば、年500~1000台の生産ではインダストリー(産業)としてなりたたないとして、1万ないしは1万5000台の大量生産によるコスト・ダウンで自動車の普及をはかり、それによって大衆自動車工業の確立を意図したことがわかるとおもいます。

共同出資で会社を設立

こんにちは。


前回の続きですが、中古車情報によりますと、残された2社は提携が進み、昭和9年「いすづ」の共同販売会社として協同国産自動車が、ついで12年東京自動車工業が設立されたそうです。


1方、戸畑鋳物は翌8年自動車部を独立し、日本産業と共同出資で自動車製造会社を設立しました。


同社は、工場を横浜と大阪におき、まずフォード、シボレー両社の部品の量産をおこない、技術を取得しながら、戸畑鋳物でかねて計画していたダットサン車、年間5000台の量産をめざしました。

買収

中古車情報によれば、三社は商工省の製造奨励補助金の受取機関として国産自動車組合を設立し、この組合が商工省と三社の中間に介在し、製作命令、補助金の交付等の事務を行い、三社が国策会社として同一規格の車輻を生産することになりました。


ここで小規模の資本と設備を3社に分割したまま生産することは不合理だとして、3社の企業合同問題が発生した。


このように商工省は既存3社の合同をもとにトラック部門にかぎって自動車工業の確立をはかった。


国産3社は昭和7年かろうじて試作車「いすづ」を完成させ、ようやく合同の気運がやや生じはじめたとき、突如、3社の1つダット自動車が60万円で戸畑鋳物によって買収されました。

製作を決定

商工省は昭和6年6月自動車工業確立調査委員会を設置し、三回の会議と特別委員会をへて商工省標準型式自動車の製作を決定しました。


この標準車の生産にあたっても年産1000台を計画しそのため補助金を交付し、使用に際して自動車税の引下げ、あるいは輸入関税増徴によって輸入、国産両車の市価の調整をはかって自動車工業を育成しようとしました。


中古車情報によると、この商工省の標準型式自動車の製作決定で国産三社(東京ガス電、石川島、後の自動車工業、快進社改めダット自動車)は、ようやくトラック部門で曙光を見出したそうです。

両販売機構

販売には目産、日新自動車の両販売機構があたります。


中古車やノックダウン車の部品は順次国産化をはかり、3年後をその完成目標とする。


組立および部品国産化のため、オースチンは日産に対し、あらゆる技術援助を与える。


すなわち、図面、材料、仕様書、部品表、そのほか必要書類の提供をはじめ、必要なばあい、治工具などを譲渡する。


またオースチンの支配下にある特許の使用を認める。


オースチンA40の部品を日産が独自に生産する他の車種(たとえばダットサン)に使用することを認める。


以上の実行上必要なときには技術員その他を相互派遣する。


以上の代償として日産は、オースチンに対し組立て開始2年目以降、次のロイヤリティを支払います。

技術提携

中古車情報によると、日産は、戦前からの小型乗用車ダットサン、普通乗用車としてニッサンを製造したが、戦時、占領下の空白をうずめ乗用車の量産技術を国際的に高めるため、イギリスのオースチンとの技術提携にふみきりました。


それは、オースチン車がイギリス最古の歴史をもち安定性があること、昭和27年3月現在1288台が稼動し使用者に信頼されていること、国情に適しエンジンがよいこと、等の理由による。


そして昭和27年12月通産省の正式の認可をうけたが、その内容は、①日産は、オースチンA40サルーン型乗用車をノックダウソの形態で年間2000台輸入して組立て、これを国内市場にオースチン車として販売する。

乗用車の量産化

対日進出をねがい技術格差も大きくないヨーロッパの自動車工業をやや自主的に利用し、ヨーロッパ小型車の需要をおきかえ、クルマ社会を実現しようとしたためでもありました。


中古車情報によればここに明治以来くりかえされた技術導入にあたっての深い知性があります。


このような官民一体化した合意のうえに日産はオースチン、いすづはルーツ・モーター、日野はルノーの各社と技術提携し、部品の組立、国産化の過程を通じて設備の近代化、すなわち乗用車の量産化をはかったのです。

乗用車の量産と技術導入

このような経済自立のための産業合理化政策にしたがってわが国の自動車工業は、ヨーロッパ型の小型乗用車の量産体制の確立をめざし、その方法として技術導入を積極的に行いはじめた。


中古車情報によるとわたしたちの国が戦後すべてにわたってアメリカの影響をうけながら、乗用車ではアメリカの大型車ではなくヨーロッパの小型車をモデルとしたことは興味があります。


それは、関係者が征服者として君臨したアメリカの恐るべき自動車工業の直接的な支配をさけ、国民所得の低さ、道路事情の悪さ、石油資源の皆無などの条件をよく認識し、それらにふさわしく、戦前から技術集積をもつ小型車を選択したためでした。

アメリカ流の消費者運動

中古車検索をしていて、見つけたのですが、欠陥車問題とは、アメリカとわたしたちの国の自動車工業、とくに部品工業の技術格差、それに先行する法制から生じたもので、貿易の自由化をのりきるための軽乗用車、それをつくった中小後進メーカーの否定でした。


こうした欠陥車問題をわたしたちの国の自動車工業は、アメリカ的な届出制(リコール制)を採用し、乗用車部門ではもっとも後発的な本田の軽乗用車N360を犠牲に供してきりぬけた。


本田からみれば、二輪車から四輪車メーカーへ変貌するにあたって、ユーザーのもっとも低い所得層をモルモットがわりにして技術を蓄積し、その費用を自転車屋さん(小売店)に負担させて、これまた生きのびた。


先発的なアメリカの自動車工業の大型乗用車の安全性の追求は、後発的なわたしたちの国の自動車工業の、さらに後発的な乗用車メーカー本田の、さらに速成的な軽乗用車を直撃し、その購買層の犠牲を支払わせるに終り、アメリカ流の消費者運動はついにみのらなかったのです。